私の家族は私だけ

精神的排泄物を吐き出す撒き散らす

機能不全家庭に育った私は自らに精神麻酔をかけた

精神に麻酔がかかっていた期間がある。注射をされた訳でも、麻酔ガスを吸った訳でもない。私の脳が、「このままでは危険だ、感覚を鈍くしないと生きていけない」と判断した結果だ。

そんな『精神麻酔』がかかるとどんな状態になるのか、また麻酔が切れた後の状態について述べたいと思う。

 

※『精神麻酔』とは私の造語です。この記事は全て私の経験に基づく分析であり、医学的・生物学的な根拠は一切ありません。

 

では、精神麻酔がかかっている状態とはどんなものか。

まずは記憶。幼少期から中学3年生までの家庭で過ごしたとき、主に父親が同じ部屋の中にいたときの記憶があまりない。

それなのに学校で過ごしたとき、友人と遊んだとき、母方の実家へ一人で泊まりに行き、遊んだときなどの記憶はしっかりとある。私が何かの拍子に「そういえばこんなことあったよね」と話すと周りが「よく覚えているね」と驚くほどに。

 

そして友人など『対等な立場の人間』と関わるときの感覚。

本当に異常な話だが、私は他人にも自分と同じ感情や感覚があるということを考えもしなかったのだ。そもそも精神麻酔がかかった状態の私に『考える』という機能がなかったように今は思う。ただ『感じる』というだけだ。

だから当然のように『他人と自分は異なる生物である』と感じて、それを疑うどころか『自分が『他人と自分は異なる生物である』と感じている』ということにも気がつかなかった。

 

全てがやりたい放題で、相手の迷惑など気にしない、というよりここでも『相手に迷惑という感情があることすら意識できない』のである。

例を挙げれば、中学1年のとき友人5人くらいでカラオケに行った際、自分の曲を連続で5、6曲入れても平気だった。まともな感覚の友人が「ちょっと入れすぎー」とからかい気味に(しかし明らかに戸惑っていたと思われる)注意してきても、当時の私としては「え?なんで?何が?」という感覚であった。

 

では『対等でない立場の人間』、つまり両親や教師と関わるときの感覚はどうだったのか。

まず父親と関わる際の感覚。前述のようにこの人間と過ごした時間の出来事などの記憶はほとんど消えてしまっているのであるが、一部の記憶についてはおそらく一生忘れられないと思う。

 

感覚の説明の前に父親の性質について説明する。この人間は知能が高い。しかし精神における明暗の差が非常に激しい。躁鬱と表記するのがしっくりくるが、おそらく診断を受けていないので明暗と表記する。

明の状態は本当に朗らかで、何を話していても二言目には冗談に変えてしまう。「他人を笑わせるのが趣味であり喜びだ」と本人もよく言っていた。こんな風に書くのは本当に癪に障るが、客観的に見るとこの冗談もそんじょそこらのつまらないものではなく、ウイットを充分に含んだ本当に面白いものである。

 

ところが暗の状態になると一転、到底理解できない理由で激怒し始める。

昨夜まではいつも通り雑然としたリビングでいつものように冗談を言いながら酒を飲みご機嫌に過ごしていたかと思えば、今朝は起きるが早いか「おい!何だこの汚ねえ部屋!今すぐ片付けろ!まるで豚小屋だな、チェッ…」と怒鳴り散らす。

その散らかっている原因も、ほとんどが父親の飲み終えたビールの缶やグラス、食べ終えたつまみのゴミ、読み終えた新聞や雑誌だからますます理屈が通っていない。

私も子供心に(お前が散らかしたんだろ…)と思っていたことを覚えている。しかしそれを直接言うにはこの人間は恐ろしすぎた。ただ怒鳴るから、何をするか分からないから恐ろしい、それだけではない。

普段のつまり明状態のあの人間と今目の前で怒鳴り散らしているこの人間は確かに同じ人間のはずなのに、はっきりとした大きな原因もなく『機嫌』だけでここまで豹変してしまっているという事実が何よりも恐ろしかったのだ。

 

そんな日々はストレスの塊だった。父親が癇癪を起こす理由は分からない。時間も決まっていない。だから対策のしようがない。上記の例でいえば『父親が怒らないように部屋を片付けておく』も通用しないのだ。父親が自分で散らかして寝て起きたら癇癪が始まるのだから。では朝だけ気を張っていればいいのかというとそうではない。昼でも夜でも、『本当に、ついさっきまで』明状態だったのに突然癇癪が始まることはざらだった。

 

経験してもいない他人と自分の境遇を比べるなど失礼で馬鹿げた行為だと充分に承知しているが、私は明状態が一度もないような、終始むっとして少しでも何かあれば怒鳴りだすようないわゆる『昭和のお父さん』の方がまだましだったと思っている。

あまつさえ明るくひょうきんな父の顔を見せられると「こっちが本当のお父さんだ、怒っている時は間違いなんだ」と思い気を許してしまうからだ。

 

毎日望みもしないくじ引きをさせられているようなものだ。くじならばまだいい、選びようがある。でも親は選べない。産まれる前も、産まれた後も。だから当時の私は朝起きてから夜眠るまでずっと「今日は大丈夫でありますように、『本当の』『普通の』お父さんでありますように」と祈るしかなかった。

 

一方母親は、簡潔に言うと「歳を重ねただけの子供」であった。自分で私の父親という相手を選び結婚し子供まで作ったはずの母は、父親に対し私と同じように怯えていた。私を守ってくれようという意思を感じたこともあったが、実力が伴っていなかった。

父親を恐れた母が、私を理不尽に責めたこともよくあった。

 母はあるアニメが好きでずっと録画していた。たまたま父と私が二人でリビングにいた時にそのアニメの放映時間になり、ビデオの録画が始まったときのことだ。『普通の』状態の父親が「これ録画してんの?」と私に尋ね、私も何の気なしに「うん、お母さんが録画してるんじゃない?」と答えた。

それから数時間後か数日後か忘れたが、今度は母と二人になった際に「あんた、お父さんにお母さんが○○(アニメ)録画してるって言った?」と尋ねられたので、「うん」と答えると、「余計なこと言わないで。あんたが好きだから録ってるとでも言っておけばよかったのに」と責められた。これに類する「余計なこと言わないで」は本当に何度も言われたものだ。

この原因について、当時母から言われたのか自分で想像したのか定かでないが、父が母に「アニメなんか録画するな」などと言ったのだろう、という記憶がある。そしてそのとばっちりが私に来たという訳だ。

 

そもそも当時ビデオ録画については母が全て管理しており私はビデオ機に触れたこともそんなになく(ビデオ世代ではない方へ:ビデオ録画は現在のHDD録画と違いテープ交換など面倒な管理が必要で、他の人がうっかりいじると録画を失敗してしまうということもよくあったのです)、母が見たい時間に見て消してしまうから私自身そのアニメを見たことは数回しかなかった。

それを一瞬で臨機応変に(あ!お母さんが怒られるかも…私が録ってもらってることにしよう)と考え行動できる子供を求められても無理というものだ。そんなに賢ければ殺人を犯しても少年院で済む10代のうちにお前ら両親を殺していただろうから、むしろそんな知能を有していなかったことに感謝して欲しい。

 

さて、ここでやっと精神麻酔の話が戻ってくる。きっと私の本能だか何だか知らないが脳味噌の一部分はこう考えたのだろう。「いつまでもこの父親および機能不全家庭にビクビク怯えて暮らすのは生活の妨げになる。だから麻酔をかけて精神を鈍くし、怯えの感情を抑えよう」と。

そして記憶についても、「辛い時間の記憶はすぐに消し、その代わりに楽しい時間や安らげる時間の記憶を強く残そう」としたのだろう。でないと父親と過ごした日常の記憶がほとんどないのに学校や母方の両親の家(いわゆる『おじいちゃん家』)へ行ったときなどの詳細な記憶は残っていることの説明がつかない。

 

そうして私は自分の脳味噌に精神麻酔をかけ、一言で表すと『客観性』が全くない人間になってしまった。客観性がないということは、裏を返せば全てが主観でしかないということだ。

だから当時の私は親に説教されても先生に叱られても「どうやって終わらせようか」としか考えられなかった。「使った物を片付けろ」「忘れ物をするな」言葉の意味はもちろん分かる。

でもなぜ怒られるのかが分からない。だって怒られたところで直るものではないから。『物を片付けるのを忘れてしまったらそれはそれで直しようがない』『忘れ物も同じ、学校で使う物を家に置いてきてしまったらそれはそれでどうしようもない』

 つまり当時の私は『今の自分ができないことは何をどうしても永遠にできない』と、これまた思考ではなく感覚で思い込んでいたのだ。この感覚は前回の記事『『学年で一番太っている人』が見ている世界』にも通じるものがある。

とにかく、『できないことができるようになる』とか『失敗していたことが成功するようになる』という感覚が一切なかったのである。

 

これは前述した、理不尽なくじ引きのような父親との生活が影響しているとは考えられないだろうか。くじ引きには失敗も成功もない。ただひたすら『運』だけだ。しかも重ねて言うが、当時の私はくじを選ぶことすらできないのだ。

そんな状況で知らず知らずのうちに積み重ねられた無力感が私の生活全てを蝕んでいた、というのは決して大げさではないと思うのである。

 

当時の私がいかに異常な感覚を持って生活していたか、実例を挙げて説明したい。

中1の頃の私はあまりにも忘れ物が多く、担任から嫌というほど怒られていた。担任は男、担当教科は体育。またその怒り方も心を傷付けるようなものだった。

まず誰かが何かいけないことをしたと知るやいなや大声で怒鳴りクラス中をしんと張り詰めた空気にさせる。その心臓を刺すような沈黙の中で生徒を睨みつけねちねちと叱る。そんなやり方だった。

 当時の私は忘れ物や問題行動(といってもこれも故意ではなく精神麻酔のせいで他人の心が分からないゆえのことであったが)が多く、叱られる機会はクラス内でダントツだった。

いくら感覚が鈍くとも、クラス中に注目されながら叱られるのは恥ずかしく居心地が悪いので当然嫌だった。しかし、不思議な余裕があった。自分を睨みつける担任の目を睨み返し「はい」「はい」と答える余裕が。

 今の私ならば年上の男性なんてもちろん、子供に睨まれただけでも震えて目を伏せてしまうだろう。それは相手の心情を想像し、『他人を睨むほどの敵意が私に向けられているのだ』と実感しその恐ろしさに耐えきれなくなるからだ。

つまり、精神麻酔のかかっていた頃の私は今の私よりも『強かった』といえる。鈍感がゆえの強さが確かにあったのだ。

 

忘れ物に関してもう一つ。さすがの私にも「忘れ物を減らそう」という意識はあり、「なぜ私はいつも忘れ物をしてしまうのだろう」という疑問もあった。

そこで普通の人は寝る前にカバンの中身を確認すると思う。私も『寝る前にカバンの中身を確認する』という行為自体や、その行為が推奨されていることは知っていた。でも、やらなかった。

布団に入って「明日も忘れ物したら怒られるな」と不安に思う、そこまでは普通の感覚だ。しかしその次。「何で私はカバンの中身を確認しないんだろう…」と考えながら嫌な心臓の鼓動と共に目をつむり眠りにつこうとするのだ。今こうして書いていても全く理解ができない感覚だ。でも、事実だ。

 

だが、ここでまた先程のくじ引きの感覚を当てはめると理解できはしないだろうか。

当時の私にとって自分のカバンの中身すらも『くじ引き』だという感覚になってしまっているとしたら。寝る前にどれだけ教科書・ワーク・ノートを揃えようと意味がない。くじを引くのはカバンを開けるとき、つまり明日の朝学校に着いて授業を受けるときなのだから。

そう、当時の私は理屈ではなく感覚で、『自分の生活の根幹である『親』との関係が理不尽なくじ引きである以上、この世の全てのことはくじ引きだ』と思い込んでしまっていたとしたら。理解できてしまうのだ。少なくとも現在の私には。

 

では、そんな『ひどく鈍感で、それゆえに『強い』』私を作り上げていた精神麻酔が切れた時、私の身に何が起こったか。

その説明をする前に、私の経験した本当の麻酔の話をしたい。

小学2~3年生の頃だと思う。母に付き添われ歯医者に行った私は、下の歯を抜くだか削るだか忘れたが、とにかく下唇に麻酔注射を受けたのだ。治療が終わると下唇の感覚がない。前歯で噛んでも、爪でつついても何も感じない。当然のことだ。麻酔なのだから。

歯医者から出て家に帰る途中も、歩きながら下唇を噛む、触る。母から「あんまり触るんじゃない」と注意されても、面白さにはかなわない。自分の体の一部にスライムがくっついているような面白さ。噛む強さはどんどん増し、本当にスライムを噛むかのように遊んでいたその時。

「いたいっ!」麻酔が切れたのだ。散々噛んだ下唇には裂けたような(実際に裂けていたのかもしれない)じわりとした痛みが襲う。やがてじわりとした痛みは激痛に変わり、母の「だから言ったのに」の声を受け、先程までの軽率な自分を呪ってうずくまる他なかった。

 

もうお分かり頂けたかもしれない。精神麻酔が切れたときの私も、このような感覚になったということを。

私の精神麻酔が切れ始めた、つまり鈍い神経から正常な神経に戻り始めたのは高校1年生の時だった。きっかけについては本記事では割愛させて頂くが、ある出来事によって私は『客観性』を手に入れた。

そうなると『他人の中にも自分と同じような『人間の感覚』がある』ということを実感し、周囲の人が怖くなった。先程の例でいう、今まで麻酔で抑えていたじわりとした痛みが始まったのだ。

そこから私の中の『客観性』は急激に育ち始め、社会に出て働き始めたこともあり私の精神は驚くほどの変化を遂げた。それと同時に精神麻酔がかかっていた頃の自分がどれほど鈍感であったかを知り、それにより他人をどれだけ不快にさせ、傷付け、他人からどう思われていたかを想像するともう頭を抱えずにはいられないほどになった。

過去だけならまだいい、しかし一度自分の中の客観的感覚と向き合ってしまうと今度は『今対面している人間や出来事』あるいは『対面してはいないが私の言動を見ている人間』、『今後対面する人間や出来事』についての客観的感覚も育ってしまう。

誰かと話していても「自分のこの返答は相手を不快にし傷付けていないか、周りにいる誰かを不快にし傷付けていないか」ともはや病的に気にし始めてしまうようになった。

つまり私は『異常に鈍感な神経』から『正常な神経』ではなく、『異常に敏感な神経』になってしまったのだ。

 

この自分の経験を思い出し分析し、こうして精神麻酔という語を用いて説明できるまでになったのも本当に最近の、ここ1~2年のことである。ということはもしかすると私の精神麻酔は今も切れている途中、つまりこれからもっと神経が敏感になり、痛みが強まることもあるかもしれない。

 それでは精神麻酔のかかったまま生きていた方が幸せだっただろうか。ある意味ではそうだと思う。感覚が鈍かった頃の方が楽ではあったし、今現在感覚の鈍い他人を見ても羨ましいなと思うことがある。

 今も精神麻酔のかかっていた頃の自分の感覚を思い出す度に、本当に今の自分と同じ人間が経験したことなのだろうかと疑ってしまう。あまりにかけ離れた感覚のため、言葉や文章にしたくても考えがまとまらなくて苛々したり怖くなったりすることもある。

 

しかし精神麻酔がかかったままであれば、このように自分の異常な感覚やそれにより他人を傷付けていることを分析するどころか、気が付きもしなかっただろう。それはまるで、致命傷を負っているのに強力な麻酔のせいで「何か変な感じだな」としか思えず生き続けるようなものだろう。

同じ致命傷を負った状態ならば、麻酔を除けて強い痛みを感じてでも自分の傷と向き合っていく方が明瞭で良い、と私は思う。思うしかない。

 

<終>