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加藤紗里はなぜここまでバッシングを受けているのか?

2015年末から特大級のニュースが続く中、報道記者の方からは『箸休め』なんて言われているらしい、狩野英孝を取り巻く女性関係のニュース。私は『加藤紗里はなぜここまでバッシングされているのか』について考えてみたいと思う。

※この考察はあくまで独自の見解によるものです。

まずは加藤紗里に対するバッシング内容を大きく3つに分類してみることにする。バッシング内容は以下から集める。加藤紗里のアメーバブログに寄せられたコメント、ツイッターで『加藤紗里』と検索してヒットしたツイート、グーグル検索で『加藤紗里』と検索してヒットしたサイト(2ちゃんねる等)。
もちろんこれら全てを把握することは不可能なので、内容はある程度流し読みになってしまう。また、バッシングコメントを書く人が『加藤紗里』という正規表現をするかというとそれも疑問である。『狩野英孝の彼女』といった表現や『加藤 沙 里』などの誤字の方が圧倒的に多いとは思う。だが、さすがにそこまで時間をかけられないので、内容に偏りがあることをご了承願いたい。
その上で分類した結果がこれである。

1.加藤紗里の外見へのバッシング
2.加藤紗里の発言・行動へのバッシング
3.加藤紗里が注目を浴びていることへのバッシング

この3つを更に細分化したい。

1.加藤紗里の外見へのバッシング
 ・顔(高い鼻、突き出た頬骨等)、体型(痩せすぎ等)
 ・美容整形手術を受けたり覚醒剤を使用しているのではないか等

2.加藤紗里の発言・行動へのバッシング
 ・虚言(狩野英孝の意見と相違している、年齢詐称等)
 ・川本真琴への配慮が足りない等

3.加藤紗里が注目を浴びていることへのバッシング
 ・不快だからメディアに出て欲しくない等
 ・一連の行動は売名行為ではないか等

ざっと見た感じではこのようなバッシングが多かった。便宜上分類したが、1と2と3などそれぞれの要素が複合したバッシングコメントも多々ある。
さて、興味深いのは狩野英孝と交際しているという事実に対するコメントがほとんどないところである。芸能人の交際報道によりバッシングが発生する場合というのは、大抵『交際している事実に対する嫉妬や羨望によるもの』であったはずである。
交際報道ではないが例を挙げれば、2015年末に放送された『ガキの使いスペシャル 笑ってはいけない探偵24時』にて、SMAP中居正広とおかずクラブのオカリナがキスをする場面があり、放送直後オカリナのツイッターアカウントに多くのバッシングコメント、果ては殺害予告までが寄せられたということがあった。
しかし今回の件については、例えば『私は狩野英孝のファンであるから、彼と交際している加藤紗里が許せない』といった種類のコメントは私の確認した限りでは見当たらないのである。ではなぜ加藤紗里はこんなにバッシングを受けているのだろうか。

交際報道後からブログ記事には概ね1000件、2000件越えのコメントが付き、中でもロンドンハーツ出演後に更新された記事には4000件ものコメントが付くようになった彼女。もちろん彼女を応援するコメントもあるが、私の見た限りではほとんどがバッシングである。
わざわざブログにアクセスし、文章を考え(たとえそれが短文の罵詈雑言であっても)、書き込む。非常に手軽なことではあるが、普通はなかなかそこまではしない。裏を返せば、加藤紗里には『わざわざブログにアクセスし、文章を考え、書き込ませる』だけの何かがあるということである。
もちろんブログ以外の媒体でも同じことだ。これだけ多くの衝撃的なニュースが溢れている時期にも関わらず、加藤紗里に対するバッシングが書かれるということは、やはり彼女には話題になる何かしらの原因があるのだ。
その原因を私なりに考え、再び箇条書きで挙げていこうと思う。

1.「整形や覚醒剤を使用しなければあんな外見にはならないよね?」という『公正世界仮説』によるもの

まず『公正世界仮説』という何やらかしこまった用語について説明したい。簡潔に言えば、『正しく生きていれば正しい結果が返ってくるはずだ』と思いこむ考え方のことだ。
例えば近所で通り魔事件があったとする。その場合、『被害者は夜中に出歩いていた』とか、『被害者はみだらな服装をしていた』とか、被害者に非のあるような情報を得ると何となく安心する。その裏側には、『私は夜中に出歩いたり、みだらな服装をしたりしないから通り魔には遭わないだろう』という意識があるのだ。
では反対に、『被害者は昼間に健全な服装で人通りの多い道を歩いていたにも関わらず通り魔の被害に遭った』とすると、『誰でも通り魔に遭う可能性がある』ということになり、不安を覚える。
ではどうやって安心を得るかというと、被害者の非を自ら探しだすようになるのだ。『被害者は通り魔に対し、過去に暴言を吐いたに違いない』などと、自分の安心のために被害者を非難するようになる。これが『被害者非難』である。その裏には、『私は暴言なんて吐いたりしないから通り魔には遭わないよね?』という意識がある。
さて今回の加藤紗里に対するバッシングではどういった『被害者非難』(厳密には彼女は何の被害者でもないのでこの表現は適切でないが、便宜上こう表記することをご了承願いたい)が起きているかというと、ずばり『私は過度の整形なんてしないからあんな尖った顔にならないよね?』『私は覚醒剤なんてしないからあんな骨ばった体にならないよね?』である。
通常のダイエットをしている、あるいは摂食障害を患っている女性にとって、手術や薬物なしに体重が低下した結果として彼女のような外見になるという事実は恐ろしくてたまらないのである。しかし加藤紗里は整形手術にも覚醒剤使用にも「やってません」と答えている。
しかしそれを事実だと認めることは、『私も痩せすぎるとああいった外見になる可能性がある』と認めることになってしまう。だから女性は自分を守るため、『被害者非難』をするのだ。

2.「何の取り柄もないくせに注目されやがって」という嫉妬
これは加藤紗里に対するバッシングに限ったことではないが、自分から見て特別優れた部分がある訳でもないのに注目を浴びている人物を見たとき、人はあまりいい気持ちにはならない。ましてや普段から『自分も注目を浴びたい』と思っている人間なら特にそうだ。
『ただ狩野英孝に何股もかけられただけの女が、ぽっと出のくせに色んなテレビ番組に出て生意気な発言しやがって』という嫉妬が不快感に変わり、バッシングコメントを書かずにはいられなくなるのである。
また加藤紗里も加藤紗里で、自身のツイッターに寄せられたあだ名(自分の外見を元に付けられた辛辣なもの)やブログに寄せられたバッシングコメントなどを自らブログ記事に載せて開き直っているような文章を書いているため、『こんなに言ってもまだ効果がないのか』とバッシングも過熱するのだろう。

3.アメーバブログのコメントを非承認制にしているため
単純な理由になるが、アメーバブログのコメント欄には承認・非承認機能が設けられており、承認を選んだ場合、コメントは本人が検閲してから公開するか非公開にするか決定することができる。非承認を選んだ場合はコメントされた時点で公開される。
芸能人ブログの場合は少し違い、アメーバブログのスタッフが検閲を担っているらしいという情報も目にしたが、詳細な情報を得ていないためその点は残念ながら割愛する。ともかく、ブログの著者である芸能人に対する誹謗中傷や厳しい意見等は載らないようになっているようだという意見がある。
ところが彼女は今回の報道後に更新した記事の全てを非承認にしている。つまり本人あるいはスタッフの検閲なしにコメントが公開されていくのである。ちょっとした匿名掲示板状態になっているともいえる。
彼女もさすがに全てのコメントに目を通すことはできないだろうが、それでも本人に直接届く可能性の高い意見を、匿名で長々と記すことのできる場所と化した彼女のブログコメント欄が賑わうのも当然といえば当然なのかもしれない。

その他に加藤紗里がバッシングを受ける理由もあるだろう。川本真琴のファンが川本真琴を守ろうとしているとか、そもそもそんなニュースどうでもいいのに何度もメディアに出てくることが不快だとか。ただそれらは他の人も思いつくだろうし、詳細を書く程のことではない。

最後に私自身の意見を述べて終わろうと思う。結論から言ってしまうと、私が芸能人としての加藤紗里のファンになることはない。写真集やらCDやらを出しているようだが、私はそれを一切買わないし、時が経つにつれ彼女のブログも見なくなるだろう。
失礼ながら2ちゃんねるかどこかで『ワンピース』のキャラクター『ドフラミンゴ』に似ているという彼女の写真が貼られているのを見たときは声を出して大笑いした。本当に似ていたのだ。
それでも彼女が2月11日に更新した記事『謝罪・・・』の中で
『(略)そしてあんまり言いたくないんだけど、紗里は上京して一人暮らして 毎日誰も支えてくれない環境で1人で泣いてるよ~笑笑笑 え、みんなリアルに平気でいると思ってる?笑 毎日、おいロバとか言われんだよ笑(略)』
と書いているのを見れば嫌でも同情の気持ちが湧きあがる。
サンデー・ジャポン』に出演した彼女が、生放送だからか微妙に噛みあわない受け答えをしたり、キャラクターにそぐわないまともな意見を言って軽く場を白けさせるところを見れば人間味を感じる。
繰り返しになるが、私が彼女のファンになることはない。彼女に関連する商品を買うこともない。ほとぼりが冷めてしまえば、今私の中にある彼女や彼女へのバッシングに対する興味も消えるだろう。
それでも今このひととき、良くて面白おかしく、悪ければ辛辣な批判でもって取り上げられる彼女のことを、私は決して嫌いではない。万が一、加藤紗里さんご本人がこの記事をお読みになることがあれば、こういうファンでもアンチでもない人間も中には存在するということを忘れないでほしい。などと思ったりするくらいには。
<終>